『大丈夫?』
〜受賞のその後〜
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齊藤 堯 さん 1931年生まれ、無職、東京都在住
進行性筋委縮症
72歳の時に第39回(2004年)佳作受賞
齊藤 堯さんのその後のあゆみ
『大丈夫?』
我が家のあいさつ
前回の入選は平成16年でした。進行性筋委縮症と闘いながら50年、生きる目標を目指し如何に生きてきたか、また支えてくれた妻に感謝の気持ちを込めて、もし神様が一度歩かせてくれたら「一度妻を背負いたい」の題名で文章をまとめました。入選してNHKテレビに出演した30分の対談番組は、私にとって体験したことの無い貴重な経験でした。出演後の反応も驚くほど有り、多数の励ましのお手紙や電話を頂きとても励まされました。又、数年前にはラジオ深夜便で45分間の対談放送に出演させて頂き、これも楽しい想い出になっています。
あれから10年以上経ちましたが、症状は大分進行しました。当時はまだまだ身の回りのことは自分で結構できましたが、今では完全に一日座ったきりで両腕とも全く動きません。自分で出来ることは、食べる事と電動歯ブラシで歯を磨くことぐらいです。食事は茶碗を持てないが食い意地だけは未だ有り、何とかテーブルに肘を付き、箸を使って食べています。良くこの不自由な身体で永く生きられたと感心する毎日です。それには、愚痴ひとつ言わず40年以上も献身的に尽してくれる妻の介護と労りが有り、日々成り立っているからです。
朝は「おはよう」のかわりに「大丈夫?」と聞かれ、それがあいさつがわりとなります。先日、興味本位に「大丈夫?」を一日何回繰り返すか数えてみたら、何と38回も言われていました。考えてみるとこの言葉がいかに私を励ましていることか。朝はベッドから降ろしてもらい洋服を着せてもらう、夜寝る時は寝間着を着せてベッドに寝かせてもらいます。昼間は座位ですが、時々後ろに倒れて後頭部を打つので、毛糸の帽子を被り、後ろに布団を置き一日中注意してくれます。数年前に介護度4と認定されましたが介護保険はいまだに使っていません。
私の一日
起床は午前8時、前回の障害福祉賞で説明した手作りのエレベーターに乗り階下に降ります。このエレベーターは優れもので、一年365日休まず40年間も動いています。トイレも電動で上下・左右に移動するブランコが付いていて元気に動いています。階下に降りると電動で上下する座いすに座り、一日中座った状態で過ごします。身体で動く機能は顔の筋肉と、握力は無いが指だけは自由に動くのでとても助かっています。普通の人なら完全に寝たきりの病人でしょうが、発熱でもしないかぎり必ず毎日起きるように心掛けています。妻は6つ年下で現在77歳ですが、今でも毎日私を一日に十数回は抱き上げ、入浴や身の回りの世話をこの40年間、一人で私の介護を続けています。
この粗大ゴミ状態の身体でも、私は毎日自分の一生の全てをかけて献身的に私の面倒をみている妻を見て、相棒である自分は出来るだけ永く元気にしてないと、24時間心配ばかりしている妻の顔を見て申し訳がたちません。二人きりの生活ではいかなる体調であっても、何か話し掛かけたとき返事がないほど寂しいものはないと思っています。
2、3年前までは何かしなくてはと、30年前から続けている点訳をやってきましたが、現在では定期的にラジオ深夜便の月刊誌の点訳があるくらいです。生きている間は何か前向きに目標を立てと考えますが、情けないことに80を過ぎると何をやってもまとまらなくなりました。気力や思考力の問題ではないようです。昨年あたりから体調がガラリと変わり頻繁に不整脈が続き、動くと息が切れ眩暈がするようになり苦労しています。横になると一時的に楽になりますのでテレビでも見て回復をまちます。すると、近ごろ盛んにテレビで「終活」とか、身の回りの整理をなんて番組が目に付き、ますます焦りを感じてしまいます。パソコン内の個人情報の削除をしたり、思い切ってメールやインターネットも解約しました。パソコンの中はオフィス(ソフトウエア)のみになり、非常に寂しい思いをしています。
昨年の4月から毎週火曜日には、介護施設で午後の半日デイサービスなどに出るようしています。12時半にお迎えの自動車がきて、施設には10人ほどのお年寄りが集まります。体操、リハビリ、雑談でお茶菓子を頂き半日を過ごします。他の人は入浴サービスなど有りますが、私は無理なようです。水曜には少しでも負担を減らそうと、訪問入浴で介護士の方に風呂に入れてもらうようになりました。
癌の発症
何十年も心配ばかりしながら私の面倒を看てきた妻に、またまた大きな負担を掛ける出来事が起きました。毎月の通院で神経内科に定期診察を受けている時に、検尿採取のためトイレに入ると突然血尿があり、驚いて先生に看てもらうと泌尿器科に紹介してくれました。早速泌尿器科の先生が肛門から金属の棒を入れ、針検診をしてくれました。12本の針検診の結果、2本にガン細胞が検出されました。かわいそうに出血で驚き、癌と言われ、妻は真っ青になって生気を失い、その場で一時間ほど寝かせてもらいました。本人は平気な顔をしており、有り難い奥さんだねと先生は笑っていました。
治療として先生は手術、飲み薬、放射線の3種類を提案されました。手術は動けないので無理、飲み薬は副作用が心配なので、二人で相談して放射線治療を選びました。結局放射線の治療は数分で済み、入院しないで毎日休まず病院に通いました。連続38回の放射線治療で一か月半、大した問題もなく退治できたようです。
2007年には胃内視鏡検査の細胞診で幽門ちかくに癌が検出されました。早速二週間の入院で切除しました。そして2013年には大腸内視鏡の検査で盲腸付近に22ミリの癌が発見されました。筋肉の委縮で大腸は軟化して大変挿入が難しく苦労しました。結局3人がかりで手術に4時間もかかりました。これだけ病気が多いと、痛みや苦痛には強くなり「なるようになる」の気持ちなので、自分でも思いますが本当に病気には強いようです。
60年前のまさに青春時代に身体の不調に気付き悩み苦しみ、東京の大病院のほとんど受診して東大病院にたどり着きました。東大病院に3か月入院して、当時は聞いたことも無かった難病「進行性筋委縮症」と診断され、以後60年以上も経過しました。昭和48年からは車いす生活になり、そして現在も症状は徐々に進行しているようです。最近は寝返りも打てなくなり、座っていて上半身が前に屈むと自力では戻せなくなりました。
ショート・ステイの実施
32歳でこの上ない良き伴侶を得て50年、もしこのカミさんと出会いがなかったらと思うと想像すら付きません。先日も2時間ばかり出掛けた時、ちょっとの不注意で手を滑らせ不自然な姿勢で転びました。手足はしびれ苦しい姿勢で帰るまでジッと我慢して居なければなりませんでした。
最近はカミさんもお歳のせいか「アタシに何かあったらどうしよう」「万が一の時に用意」等と心配ばかりしています。訪問入浴の介護士さんに参考までに聞くと、一度介護保険のケア・マネージャーに相談したほうが良いよといわれました。ケア・マネージャーは入浴の介護士さんと同じ施設に勤務していましたので早速連絡をとりました。
ケア・マネージャーの提案は、その時に慌てないように施設でのショート・ステイを経験しておいた方が良いと言われました。介護保険について何の知識も無いので悩んでいると「とにかく、一度経験してみたらいかがですか?」と言われました。早速近所にある施設でショート・ステイに一泊することになりました。
テレビ等では老人同士で趣味や会話を楽しんでいる画面を見ますが全く期待はずれでした。丸々二日間、全くすることが無く会話も無く、ベッドに寝たまま動けず退屈で死にそうな寂しい思いをして来ました。いつもカミさんが言う「アタシに何か……」を思い知らされました。
「成るように成る」、「どうにでも成れ」と自分では結構悟ったような気持ちでいましたが、静かに平静な気持ちになれるのは大変に難しいことだと分かりました。いろいろ経験したことで何かいつも急かされ焦りを感じている自分を感じます。
この後、何年生きるか分かりませんが「大丈夫、大丈夫」を聴きながら、常に感謝の気持ちを忘れず一日一日を大切に生きて行くよう心掛けたいと思います。
福祉賞50年委員からのメッセージ
昭和6年生まれの齋藤さんたち世代が戦後日本をリードしてきた。21歳で進行性筋萎縮症と診断され「原因不明」「治療法無し」「この先は分からない」と医師から聞かされた。でも、「生きたい」「働きたい」と運転免許を取り、結婚、住宅改造、そして点訳ボラ。「一度だけ歩かせてくれるなら、妻を背負ってどこまでも走って行きたい」に心からの愛情を感じた。それからの10年も壮絶だ。筋肉の萎縮の進行と2度の癌手術。文字にできない思いもあるだろう。でも、奥様とのツーショット写真がとてもいい。「大丈夫、大丈夫」。
薗部 英夫(全国障害者問題研究会事務局長)