NHK厚生文化事業団 「私の生きてきた道 50のものがたり」 障害福祉賞50年 - 受賞者のその後

『すべてのことに意味がある』

〜受賞のその後〜

栗川 治 くりかわ おさむさん

1959年生まれ、高校教諭、新潟県在住
視覚障害
51歳の時に第45回(2010年)優秀受賞

栗川 治さんのその後のあゆみ

『すべてのことに意味がある』

半世紀プラス5年の歩み

2010年の第45回NHK障害福祉賞で優秀賞をいただいてから5年。その入選作は「心と社会のバリアフリー 父と私が歩んだ職業への道」という題で、失明した父への無理解と反発、同じ病気での私自身の視力低下と、自らの差別意識が心のバリアとなって苦悩したこと、妻や同僚との出会いの中で、障碍を個人の欠陥と捉えるのでなく、活動や参加を阻む社会的障壁と捉えなおしたことなどを書きました。そして、父が他界してからやっと、父がもがき苦しみながら模索しつつ歩んだ職業を求める道を、私も追いかけるように歩んでいることに気づいたことを、亡父への感謝と謝罪の思いをこめて記しました。ごろあわせで「半世紀の半生を反省する」と言っていた50歳が、「ゴーゴー、レッツゴー」の55歳になりました。

栗川さんの授業風景

職場は引き続き新潟県立新潟西高等学校で、10年目を迎えました。同僚や生徒たちの理解・協力、アシスタント教員による支援もあって、順調に職務を行うことができ、充実した教員生活を送っています。おもに「倫理」の授業と、生徒指導を担当し、日々、生徒たちとともに楽しく、時には厳しく、一人ひとりをたいせつにするという基本姿勢で教育活動に取り組んでいます。
 この5年間の新たな動きとしては、部顧問をしているボランティア同好会がボランティア部に昇格し、さらに新潟西高校ボランティア部の呼びかけで、新潟県内のボランティア関係の高校の部活動の交流会が開催され、新潟県高等学校文化連盟にボランティア専門部が結成されたことがあります。また、全国に孤立・散在する障碍のある教職員の連帯・交流の場としての「障害のある教職員ネットワーク」が組織され、先日、第1回全国集会が開催されました。この2つの団体の結成に、微力ながら関与できたことは、容易なことばかりではありませんが、大きな喜びでした。いずれも、人と人とがつながり、支えあうことで、人間社会は豊かになれるのだという希望を未来につなげていく組織として成長していけるよう、定年退職までの残りの5年、私なりに努力していきたいと思っています。

自然に浸透した「心と社会のバリアフリー」

2012年には、障害福祉賞受賞作を含め、これまで書いてきたものに、新たに書きおこしたものも加えて、『視覚障碍をもって生きる できることはやる、できないことはたすけあう』という書籍を出版しました。この年には、内閣府の障害者政策委員会の専門委員に任命され、障害者基本計画の策定過程に参画するという貴重な経験もしました。

合唱の演奏会風景

仕事以外の趣味に関しては、合唱とランニングを楽しんでいます。合唱は、大学生の頃にやっていたのですが、2008年頃から地元の合唱団にいがた、にいがた東響コーラス等に入団し、東京交響楽団や新潟交響楽団などの演奏会で、ベートーヴェンの第九交響曲をはじめ、バロックから現代音楽に至るクラシック名曲を、合唱団員やスタッフの方々、指揮者、指導者の皆さんのご理解とご協力を得て、点字楽譜を読みながら、数多く歌ってきました。ランニングは、地元の新潟楽走会などに入会し、伴走者の方々の援助を受けて、日常の練習と、時々の大会出場とをしてきました。ベスト記録はフルマラソンが3時間55分ですが、一昨年膝を痛めてからは練習も大会出場も激減し、今はランよりウォーク中心に移行しつつあります。
 職業、趣味のいずれに関しても、「できることはやる、できないことはたすけあう」をモットーに、あまり視覚障碍を否定的条件と捉えずに、自分のやりたいことをやってきました。高校にしても、合唱団や楽走会にしても、それまで視覚障碍のある人が所属していなかった所に、私が入りたいと言うことから始まります。戸惑いや懸念がある中で、お互いに慣れていくことと、移動や情報伝達での配慮と支援があれば円滑に参加できることを、日々の活動をとおして徐々に体験、実感してもらい、仲間として受け容れてもらえるようになってきました。生徒、教職員、合唱団員、指揮者、ランナーといった、いわゆる「福祉関係者」でない人たちが、ごく自然に、障碍によって分け隔てることなく、同じ社会を構成する人間として共に活動することは、ノーマライゼーション社会の実現へ向けて、そして一人一人の人間性を豊かにするという点でも、意義があるようです。私自身は、ただやりたいことをやろうとしているだけなのですが、それによって周囲に波紋と混乱が広がり、旧来の固定的な通念を問い直し、結果的に「心と社会のバリアフリー」につながっていくというのは、おもしろいものです。

母の心を理解する

栗川さんと家族の写真

最後に家族についてです。2009年に父が他界した後、3人の子が東京の大学を相次いで卒業し、それぞれが神奈川、東京、新潟で就職しました。保育指導の仕事をしている妻とともに、一応、親としての役割は果たしたかなとほっとしていた矢先の一昨年末、79歳の母が、交通事故に遭い、骨盤骨折で入院しました。命は取り留めたものの、認知症が急激に進み、骨折が治った後、病院から介護施設に移りました。当初は不安や譫妄(せんもう)が強くたいへんでしたが、最近は施設にも慣れて、時間や空間の統合は失われているものの、落ち着いてきています。
 事故前、母と私との関係は最悪で、互いのエゴとエゴがぶつかりあうことも多々あり、まるで遅れてきた思春期、反抗期のように、口論が絶えませんでした。母が感情的、高圧的に自己を主張し、その言動の醜さに私が嫌悪感をもって反発すると、母の攻撃がさらに激しくなるという悪循環に陥っていました。今から考えると既に認知症の症状が出始めていたのでしょう。それが事故で一変します。母を呪縛していた劣等感や恐れなどの自己防衛の硬い殻が吹っ飛んで、解放されたようです。エビの甲殻から柔らかな身がプルンと出てきたというか、とげとげの栗のいがの中から甘い実が無防備な姿を現したといった感じです。険しく苦悩した暗い表情で、否定的なことしか言わなかった母が、温和な表情となり、私の言葉に対しても「ほお、そうかね、そう言われればそうだ」と受容的、肯定的に答えるのです。劇的に素直で無邪気なおばあちゃんになりました。それを私があまりに喜んでいるので、友人からは「施設に入れて、厄介払いできたからでしょう」と誤解されてしまうほどです。
 母がいま囚われていることは、「仕事もしないでご飯を食べていいのだろうか」ということと、「目が見えなくて何もできない」ということです。おそらく父や私と同じ目の病気の遺伝子を、母も持っていたのでしょう。母も、ここへ来て認知と視覚の障碍をもって生きることとなりました。旧来の価値観が根強く残り、心のバリアとなって、母を支配しているのだろうと想います。しかし、その母の心を理解し、共苦することができることも、有り難く、幸せなことです。

障碍に伴う苦難は確かにあります。しかし、それは私の人生を、そして共に生きる周囲の人たちをも豊かにし、幸せへと導く契機を含んでいることも間違いありません。ベートーヴェンの第九交響曲のテーマである「苦難をとおしての喜び」を、私は障碍をとおして実感することができました。いまは、すべてのことに意味があったと感謝しています。

福祉賞50年委員からのメッセージ

栗川さんの公私に渡るご活躍を見ていますと、優秀賞をとられたことは、他の多くの活躍の中の1つに過ぎないのではないかと思えるほどです。視覚に障がいがあることも含め自分自身や環境をしっかりと見つめ、落ち着いて対処していく姿はお手本にしたいです。
最後に、栗川さんの経験談は、両親との葛藤や切磋琢磨の中で成長されてきたことを改めて感じました。

貝谷 嘉洋(NPO法人日本バリアフリー協会代表理事)

ページ先頭へ

Copyright NHK Public Welfare Organization. All rights reserved.
許可なく転載することを禁じます。