『月のように生きる』
〜受賞のその後〜
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野原 基世美 さん 1976年生まれ、無職、岐阜県在住
肢体不自由
37歳の時に第48回(2013年)優秀受賞
野原 基世美さんのその後のあゆみ
『月のように生きる』
「どうしよう! 喉が動かない! 唾液が飲み込めない!」
その瞬間全身の力が抜け、トイレの中でドサッと倒れた。娘が小学校に入学する直前の2014年3月、胃腸風邪で寝込んでいた時のことだ。
我が家はトイレの鍵を廊下側から開けられるよう、五円玉が吊るしてある。夫が手際よく鍵を開け、助けてくれた。私は丸出しのお尻を何とかしたかったが、下着を上げようにも手に力が入らない。動くことを諦めた口からはとめどなく唾液が溢れ出た。そして、身体中の筋肉が私の意思に関係なくピクピクと動き続けていた。重症筋無力症の症状が出てから10年、ここまで悪化したのは初めてだった。
入院中、娘は夫の実家で預かって貰った。電話越しの娘の声は明るく、従姉弟達と遊べて楽しいと話していたが、夫の話では、食事は少量しか摂らず排便の失敗もあり、不安定な様子だった。また、病院で私が書いた手紙を胸の前で握りしめながら眠っていたとも聞き、胸が締め付けられた。私が倒れたところを見ていた娘は、どんなに不安だったことだろう。周りに心配と迷惑をかけてばかりの自分が情けなかった。
頑張り過ぎていた自分
娘は成長するにつれ、私の病気をよく理解してくれるようになった。私がつらい時には、
「ママ、大丈夫?横になって休んだら?」
と優しく声をかけてくれるので、こまめに休息を取ることで病状は前より安定していた。そのため、一気に嚥下困難にまで悪化したことは、私にとって予想外のことで愕然とした。
病状が落ち着いてから、入院前の自分の行動を振り返り、反省したことがある。
当時、保育所の役員の仕事で忙しかったが、有難いことに私の病気を知るお母さん方が手伝ってくださっていた。ただ、
「大変そうだから、これは私がやるよ」
「何か出来ることがあったら、いつでも言ってね」
と気遣ってくださった時、頼り過ぎたら申し訳ないと思って、自分で動いたことも多かった。体調が悪くなってからも周りに頼りたくなくて、夕飯の支度や娘のお迎えなど、ギリギリまで無理して動いていた。
周りの方達は私に手を差し伸べてくださったのに、私は頼ることなく自分一人で抱え込んでいたのだ。病状の悪化は自分の行動が招いたことだと痛感し、深く反省した。
頼ることへの葛藤
実は入院する少し前、障害福祉賞で賞を頂いた手記を読んでくださった方達に、「もっと周りに助けて貰うように」と言われたばかりだった。
娘が幼い頃お世話になっていたヘルパーさんからは、
「障害のある方への理解はなかなか難しいけれど、沢山周りに頼ってでも楽しい毎日を過ごして生きて欲しいです」
とメールを頂いた。
高校時代の恩師の先生が、私の手記を保健便りで紹介したいと連絡をくださった時には、
「最近、困っていることを周りに伝えられない生徒が多いから、基世美さんが勇気を出して病気のことを周りの人に話したように、生徒達も困っていることを周りの人に伝えて、助けを求められるようになって欲しいと思う」
と話されて、私は恥ずかしくなった。ようやく自分の障害を受け入れ、周りに病気のことを伝えられるようになったが、高校生の生徒と同じように人には頼りたくないと思っていたからだ。私の気持ちを先生に話すと、
「自分が前向きに頑張っていれば、周りの人は自然に近寄ってきて助けてくれるよ。基世美さんもここまで頑張ってこられたのだから、もっと周りの人に援助を求めたっていいと思う。基世美さんが頼ってくれることで、自分の存在価値を見出している人もいるかもしれないよ」
と励ましてくださった。
生き方のお手本 障害をもつ子ども達
入院中、恩師の先生やヘルパーさんの言葉を思い出して、頼れない、頼りたくない自分について考えていた。心に浮かぶのは10年以上前、仕事をしていた頃のことだ。
私は発病前、障害をもつ子ども達と関わる仕事をしていたが、発病をきっかけに退職し、娘を出産した後はヘルパーさんの支援を受けながらの生活になった。当初は支援する立場から支援を受ける立場になったことに戸惑ったが、自分なりに受け入れたつもりでいた。しかし、時々無性に自分が役立たずに思えて泣けてくるのだ。そんな時はがむしゃらに、その時の自分に出来ることを頑張り続けたりした。私から「頑張ること」を取り上げたら、何も残らないような気がして怖かった。しかし、発病前には楽に出来たはずのことが、今の私には負担が大きく、頑張ることで病状が悪化してしまう。今の自分になら出来ると思っても、悪化することがある。頑張りたいけれど頑張れない。頼りたくないけれど頼らなければ生きていけない。私はずっとずっと、葛藤していた。
退職して10年以上経つが、未だに関わってきた子ども達のことを思い出すことがある。私にとって、障害をもつ子ども達と過ごした時間はかけがえのない時間だった。大変なことも多かったけれど、子ども達が精一杯生きる姿、私に向けてくれる笑顔、「ありがとう」の言葉、彼らなりの成長を感じた瞬間、身体中から喜びが溢れ出た。つらいこと、大変なことも、一瞬で吹き飛んだ。支援する立場だった私は幸せだった。恩師の先生が言われた「人に頼られることで自分の存在価値を見出している人」というのは、正に私自身のことだ。そのことに気付いた時、周りの方に助けて貰いながら生きていくことに、少しずつ向き合えるようになった。
娘が小学生になると、子ども会や学校の活動が新たに加わった。今まではヘルパーさんの助けを借りて妻や母親としての役割をこなしていたが、これからは地域の方の助けも借りないと役割を果たせなくなった。
子ども会のお母さん方には、病気のことや、私に出来ること、出来ないことを予めお話しした。お母さん方は理解してくださり、長時間歩く安全パトロールや、動きが多い役員の仕事など、私に負担になることを配慮してくださった。
いつも、みなさんと同じように活動出来ないことを申し訳なく思う。しかし、子ども会では私以外にも事情があるご家庭があり、お互いに気持ちよく助け合える関係が築かれていた。私も助けて貰いながら、自分に出来ることをやらせて貰っている。この地域で生活出来て本当に良かった。
支援という光に照らされて生きる
私はこれまで周りの方に恵まれて、沢山助けて貰って生きてきた。小学生になった娘が登校を渋るようになった時には、私が障害者手帳を取得する時にお世話になった保健師さんに相談し、支援センターへ繋げて貰った。今も親子共々、支援を受けている。
沢山の人に助けられて生きている私は、さながら太陽に照らされてほのかに光る月のようだと思った。みなさんの助けがあって、初めて私は光ることが出来るのだ。
私は障害を抱えながら何か特別なことをしたわけではなく、周りの方に助けて貰いながら無我夢中で娘を育ててきただけなのに、私の手記を読まれた方達は、
「手記を読んで勇気を貰ったよ。私ももっと、頑張ろうと思った」
と言ってくださった。
自分で光ることが出来ない月だけど、その月を見て人は心を動かされる。周りに助けて貰いながら精一杯生きる姿が人の心を動かしたのだとしたら、私は悩みながら、助けて貰いながら、精一杯、生きたいと思う。
太陽がある限り、月は輝き続ける。これから先も病状の変化はあるだろう。娘の成長に伴い悩みも変わってゆくだろう。不安は沢山あるけれど、支えてくださる方達の存在がある限り、きっと私は大丈夫だ。
私たち家族を支えてくださるみなさんに、心から感謝を捧げたい。
福祉賞50年委員からのメッセージ
野原さんの受賞作品は「母と妻と、時々障害者」と題されていました。ただ、「障害者」であることは、実は野原さんの人生の日々にとって「時々」ではないのかもしれません。今回の手記には、「障害者」であることそのものに意味を感じ、自らの存在を肯定していく過程が綴られています。支援をする側とされる側という対比を超える境地へ進もうとする野原さんの人生に声援を送りたいと思います。
玉井 邦夫(大正大学 教授)