NHK厚生文化事業団 「私の生きてきた道 50のものがたり」 障害福祉賞50年 - 受賞者のその後

『「あ・か・さ・た・な」より「喋りたい!」』

〜受賞のその後〜

天畠 大輔 てんばた だいすけさん

1981年生まれ、大学院生、東京都在住
四肢まひ、言語障害、視覚障害
25歳の時に第43回(2008年)優秀受賞

天畠 大輔さんのその後のあゆみ

『「あ・か・さ・た・な」より「喋りたい!」』

とあるカフェにて、介助者とのパソコンの作業を一段落させ、ココアを飲もうとしたときのことです。

ちょっとでも傾ければこぼれそうな程、なみなみと注がれたココアを、介助者はストローで私に飲んでもらおうと試みるも、苦戦していました。すると、それを見かねてか、隣席の女性客がおもむろにテーブルのトレーの配置を手伝い、アドバイスをくれたのです。そして、その人はココアを美味しそうに飲む私を見て笑いながら、「イケメンなのにね」と呟きました。私がちょっと恥ずかしそうに笑うと、「あら、笑ってる。イケメンって分かるのね」と言葉を続けました。

私の容姿や動作から、言葉が判断できないと思われているのでしょう。これは私の身の回りでよくある出来事です。

1. 私の「あ・か・さ・た・な話法」について

発話が困難なため、私は一文字ずつ意思を確認する「あ・か・さ・た・な話法」を用いてコミュニケーションをとっています。

介助者と指で「あ・か・さ・た・な話法」をしている天畠さんの写真 介助者と指で「あ・か・さ・た・な話法」をしている天畠さんの写真(指を拡大)

「あ・か・さ・た・な話法」とは、例えば「電話」と伝えたいときを例に説明すると、まず介助者がはじめに、あ・か・さ・た・・・と50音各行の頭文字を読んでゆき、私は「て/で」の含まれる行「た」の音で身体の一部を動かし合図を送ります。そこで合図を確認した介助者は「た・ち・つ・て・と」と読み進めていくので、私は「て」の箇所で再度サインを送り、文字を選びます。この作業を繰り返し、ようやく言葉が姿を現していきます。濁点のつく文字等は介助者が推測し、あてはめていきます。
また、私には、平面の物が判読できないという視力の障がい、自分の身体をコントロールできないという四肢に障がいがあるため、この原稿を書くにも、原稿の読み上げやパソコンの操作など、介助者の手助けが必要です。

2. 居場所を求めて、立命館大学へ

私はいつも、自分の居場所を探しています。

2008年9月、将来の見通しも行き先もないまま卒業論文を書き上げた私は、ルーテル学院大学を卒業しました。その後、同大学の臨床心理学部に編入しましたが、心理統計などの授業に興味を持つことができず、僅か1年で退学しました。本当は同大学の大学院に進みたかったのですが、私が希望していた障害者のコミュニケーションに関する研究を導いてくれる指導教員がいなかったため、諦めざるを得ませんでした。大学院探しは大学探しの時と異なり、大学へ問いあわせるのではなく、自分で指導教授を見つけなければなりません。ひとりひとり教授をあたると同時に、私でも受験できるか、入試形式の確認をしていた当時は必死でした。

介助者とパソコン作業中の天畠さんの写真

あらゆるツテを頼りに大学院の情報を収集していたとき、複数名から「立命館大学は書類審査と面接だけで入れるし、天畠君の学びたいことを研究できると思うよ」と教えてもらいました。立命館大学があるのは京都である一方、私は東京で暮らしています。京都に引っ越すことは無理ですが、何らかの術と居場所は見つかるかもしれないと想い、京都へ足を運びました。インターネットのテレビ電話で授業をうけるアイディアについて指導教授と相談をし、「障がいとコミュニケーション」という研究テーマで発表した結果、無事に「合格」することができました。そこに少しだけ光が見えた気がしました。

3. 「誘導」の発見

立命館大学大学院に入学してから、私の生活は大きく変化しました。沢山の文献を読み、フィールドワークを行い、論文を執筆する研究が生活の軸になったことに伴う大きな変化です。

論文執筆の要となる論議を繰り返すなか、それまで同等と思っていた介助者との間に隔たりができていくのを感じました。博士論文に手をつける一歩手前のことです。論旨が深まるほど、私は勿論のこと、介助者にも一層の専門知識が求められます。協働作業する介助者の意見にハッとさせられることもしばしばです。

フランスで仲間たちと共に記念撮影
フィールドワークでフランスへ

1人の介助者が、私の思考を越えた新しい提案を示し、その介助者の力強い説得力に惹かれた私は、導かれるままにその提案を受け入れたことがありました。と同時に、この時、「この提案は私の中からでたものではないのに、果たして私の言葉、私の論と言えるのだろうか」という疑問が生じていました。専門知識の豊富なその介助者の言葉を借りることは非常に体裁が良く、「見栄を張りたい」という気持ちから、疑問を抱きつつもその提案に乗りました。しかし、たびたび繰り返されるこの行為によって、私はジレンマに陥ることになりました。

私の発言に対して介助者が主体的に介入操作する言動、これを私は「誘導」と名付けました。そしてこの行為は論文の作成だけではなく、私の日常生活において、他の介助者との間でも起こっているのではないか、と思い始めました。

4. 介助者の負担となった信頼関係と依存関係のすり替え

言いたいことを言葉にする、この行為は私にとってただでさえ難しいことです。人は、考えながら喋り、喋りながら考えます。喋りながらも臨機応変に喋ることを変更できるのです。しかし私の場合、話の半ばで話を修正したいとき、再度初めから介助者に聴き取りをしてもらうしか、思考を言葉として形に残す術はありません。多くを語ることができず、短い単語で伝える私の会話方法では、微妙な心情、意味合いなど、変わりゆく思考の展開が見えづらく、介助者と私の双方に、混乱と誤解が生じやすくなります。私が「本当に言いたいこと」を言葉に出来るのは、どんなに共通認識のある慣れた介助者であれ、難しいのです。

そうはいっても、命綱である介助者には長くいて欲しい一心で、私はいつの間にか介助者に配慮した言動をするようになりました。相手の顔色を伺いながら生きる生活です。介助者の意思を重んじ「私の意志決定」を押し殺す生活を続けるうち、「天畠大輔」がいなくなる、そんな懐疑的な感情を覚え始めました。介助者との信頼関係は、私が決定権を介助者に委ねる依存関係へとすり替わってしまったのです。そして、私だけなく介助者にも「もしかしたら大輔さんを操作しているのかもしれない」という違和感とストレスを与えることになりました。

  

5.「喋りたい!」

こうした私自身の問題を契機として、いま私は「障がい者とコミュニケーション」を主題に研究しています。「伝えたい」けれども「伝わらない」、「自分で決めたい」のに「依存する」、私の葛藤。「聞き取りたい」のに「聞き取れない」、「依存されたくない」けれども「信頼されたい」、介助者の葛藤。

初対面の場合、冒頭に記したカフェでの会話例のように、外見に基づく一方的な印象でその後のコミュニケーションのあり方を決定づけられてしまうこともあります。私のように発話困難な当事者がたびたび経験し得る一例と言えるでしょう。私たちの隔たりはどこまで広がっていくのでしょうか。

台湾で街角で人々と会話をする天畠さんの写真
フィールドワークで台湾へ

当事者として何ができるのかを模索しながら、これらを「当事者研究」として現在論文執筆しています。「当事者研究」とは簡潔に言うと、当事者が自身の問題を発見することを通じて、利益獲得へと発展させる研究のことです。私個人の問題からスタートして、発話困難な障がい者全体のためへの研究へと繋がることを目指しています。

「人を介さずに自分の言葉で喋りたい!」という尽きることのない欲求の渦中でもがきながら、今日も私は「あ・か・さ・た・な」で話すのです。

(代筆者 遠藤久美 浅羽民江)

福祉賞50年委員からのメッセージ

かなり重度の言語障害、視覚障害、四肢まひがあっても、大学で一般学生と同等に学べるように支援するボランティア活動を定着させるという大きな「役割」を果たした段階でこの賞を受賞されたのですよね。卒論は凄く迫力があった。天畠さんの向学心は強く、今は大学院で「障がいとコミュニケーション」というテーマで卒論に挑んでいるということですが、そこで直面した、これは「自分の言葉・考え」なのか、介助者のものではないかという葛藤。これ、凄く深い問題です。天畠さんだからこその気づきが、深い思索の実を結ぶことを期待しています。

柳田 邦男(ノンフィクション作家)

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