『松葉の希い』
〜受賞のその後〜
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須田 一輔 さん 1941年生まれ、仕立業、福島県在住
小児まひ
50歳の時に第26回(1991年)佳作受賞
須田 一輔さんのその後のあゆみ
『松葉の希 い』
受賞から
平成3年(1991年)当時、私は小さな住まいを手に入れ、娘も高校生にと成長し、これからの自分の歩む道を模索していた頃でした。そんな時ラジオから障がい者の体験記募集の声が耳に飛び込んできました。そうだ、これに応募しよう。そして自分を鼓舞し、これからの目標にしようと思いました。小児まひにかかり松葉杖とともに生きてきた自分の過去をありのままに書き綴り、これからは、自分が光り輝いて周りを明るくし、困っている人の心の杖になる。その様な文でした。自分への小さな約束にしたのです。ところが、思いがけない入選という恩恵にあずかり、これは社会的公約になったと、より強く意識しました。
それ迄は、背広を縫っているだけの仕事人間だったのですが、なるべく外に出て自分の障がい者としての気持を発信し続けました。
そして福島市身体障がい者福祉協会に入会、会の行事にも積極的に参加し、会の機関誌に、「天井から目薬を注すほど難しい障害者の結婚問題」、「障がい者に“害”の字を使わないで」、「支援費制度の盲点」など様々な提案をし仲間を喚起しました。自分が変わらなければ周りも変わらない。障がい者が変われば環境も変わるはず。そう思ったからです。
障がい者の自立
平成8年(1996年)、障がい者と健常者の「ふれあいの集い」の行事があり、障がい者の主張で、私が登壇し考えを述べました。要約すれば、昔から「衣食住足りて一人前」と言われていますが、障がい者の自立には、もう一つの「医職住環境」が必要です。障がい者に対して温かいご理解とご援助をと、お願いしました。
松葉杖でヨーロッパ
平成9年(1997年)、家族旅行にと旅行代理店に行き一種二級の重度障がい者が、一般の人と同じく巡るツアーに無謀にも挑戦、いろいろ難色を示されましたが、家族が一緒ということで許可が降りました。初めての海外です。
さすがに歩きは遅くすぐに疲れるし、仲間には大変迷惑を掛けましたが、私が遅れると何気ない素振りでショーウィンドウを覗いたり、観覧する館内では、車椅子を探してくれたりと、たくさんの人とその優しさに出会いました。宮殿建造物、有名絵画、料理など感嘆の声も挙げましたが、その事よりも、より強く印象づけられたのは人の優しさでした。日本を飛び立った時から私たちは一つの家族として、小さな社会として繋がって、そこに障がい者がいてもいいのだと。そしてそれが社会にとって当り前の事であることを体験したのです。
心の杖
平成12年(2000年)、福島県身体障害者福祉大会「50回記念大会」が地元で開催され、私が代表して、県全土から集った2000人の仲間の前で体験発表をしました。仲間から賛同を得ましたので中略しながら、ここに記します。
「福島県身体障害者福祉大会50周年おめでとうございます。この節目の大会で体験発表させて頂ける事をとても光栄に感じております。昭和24年に障害者福祉法が成立し翌年3月に当協会が発足したと知りました。私がポリオを発病し両下肢麻痺で重度障がい者になったのも同年9月小学4年生の時です。この50年、福祉協会の歩みは、私の障がい者としての歩みでもあるのです。発病前にあった夢も希望もあの日で無くなりました。あたり前の歩くことさえできなくなったのです。
ここにお集まり頂いたみなさま、今日は晴ればれしたお顔ですが、何かを失った頃は幾度となく悔し涙を流された事と思います。私も沢山涙を落としました。でも時が経てば涙は乾きます。やがて心に傷を残したまま、手に下駄をはめ、四つん這いになって学校に通うようになりました。まるで犬の姿そのものです。そのことが新聞に「頑張っている少年」の美談となって載ったのです。大勢の方から手紙が届きました。みんなガンバレ、ガンバレの応援歌です。でも夢も希望も無い者にはとても酷な言葉です。そんな言葉は心に届きません。そんな中にHさんという方が、「頑張らなくてもいいんだよ。今は何もやる気がおきないだろうが、そのうちに起きるようになる。それ迄のんびりしてて、飽きたら本を読みなさい」と本を3年間送り続けて下さいました。母からお礼の手紙を書くように言われ書きました。お礼ではなく恨みの手紙になりました。失った足の為に出来なくなった事、友から笑われる事、家族に迷惑ばかり掛けて生きてる価値の無い人間である事など愚痴ばかり書き並べました。
Hさんから返事がきました。「失った足の他に手があり眼があり耳があるだろう。そこから何が出来るかを考えなさい。世の中にはもっと多くのものを失った人がいて、その人も自分のできる事を見つけて生きています。障がいがあるからと云って甘えてばかりではいけない。たまには勉強してるかな」と書いてありました。その時はそうかなと思うのですが、暫くすると友のやっている事が羨ましくなり、自分もあんな事がやりたい、あれもやりたかったと書くのでした。Hさんの手紙には「人はそれぞれの運命で生きていく、兎のように跳んで生きていく人もいれば、亀のようにゆっくり這って生きていく人もいる。どちらの生き方が幸せなのかは誰も判らない。大切なのは、それぞれの生き方に、どれだけ懸命に、ひたむきに生きたかによって決まる。亀は兎にはなれないのだから」と書かれていました。私の体に杖が必要なように、心にも杖が必要だったのです。Hさんが私の心の杖です。
Hさんと出会えたから、今ここに立っていられるのです。しかしこのような出会いはめったにありません。だから、この協会こそが、障がい者の心の杖になろうという趣旨で設立されたのではないでしょうか。この半世紀、諸先輩の努力で大勢の人が生きる勇気をもらいました。皆さん、今度は私たちが今悩んでいる大勢の若者の心の杖になりましょう。ご静聴ありがとうございました。」
障害者の希い
そして今、受賞から四半世紀、私は福祉協会の中枢として、また社会福祉協議会の中で、障がい者の相談員「ピアカウンセラー」の嘱託を受け週に一度出掛けています。また、市の「障がい者地域生活支援協議会」の委員に任命されて、障がい者への支援のあり方とか、代弁者として要望を発信し続けています。
あの頃の障がい者を取り巻く環境からは、とても良い方向に進んでいます。国の方針も保護から権利擁護に舵を切り替えました。建物、道路などの生活圏もバリアがあることを認め無くそうと努力しています。でも私達が希う「完全参加と平等」にはまだ道半ばです。これからは、とくに相互の意識のバリアフリーを目指して声を出し続けていきます。
ほどほどの人生
重度障がい者の私が今迄歩み続けられたのは、沢山の人の愛と出会えたからです。仲間の愛、友人愛、家族愛、様々な愛に支えられ守られてきました。一番多くの愛をそそいでくれたのは妻です。身体補助、健康管理、経済面等全てに妻の援助があったから、ほどほどの人生を歩めたのです。偶然で運命的な出会いで人生は大きく変わる事を実感しています。皆さんに感謝。本当にありがとうございます。
人生も最終章、私の体も加齢とともに重度重複化し、日常生活もままならなくなりましたが、現在も、洋品店から背広の縫製の仕事を受けています。若い頃に比べると減りましたが、それでも月に3着ほどは仕立てています。現役の仕立職人として、障がい者として使命があるから生かされていると思って、かすかに輝きながら生きていきます。
福祉賞50年委員からのメッセージ
私からみると親の世代の方ですが、日本が経済的にも社会的にもまだ発展途上だった頃から、障がいを持ちつつも現在の地位を築いたことに心より敬意を表したい。また、「ほどほどの人生」の項に記してあるように、自分の障がい、高齢化などを受容し、自分に与えられた使命を全うしていくというひた向きさに魅かれた。須田さんが入選されたことにより、私をはじめ多くの肢体不自由の人々に就労の大切さが伝わったのではないか。
貝谷 嘉洋(NPO法人日本バリアフリー協会代表理事)