『私のみつめた あれから これから』
〜受賞のその後〜
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鈴木 みのり さん 1970年生まれ、無職、静岡県在住
ヌーナン症候群による肥大性心筋症
35歳の時に第40回(2005年)優秀受賞
鈴木 みのりさんのその後のあゆみ
『私のみつめた あれから これから』
恐れていた事態の発生 心肺停止
この度、障害福祉賞が50年を迎えられることを知り、深い感慨とともに10年前の第40回貴賞優秀賞をいただいた頃からの歳月を思い返さずにはいられぬ私です。
この賞に作品を寄せられた方々は、どなたも障害に屈することなく歩まれたご自分への誇りを胸に作品をしたためられたことと思います。私にとってもそうであったと、あの頃を思い返します。
でもあの時、まだ私は自分の障害の最大値を知らずに、あの作品をしたためていたとも、気づくのです。
私の負う障害である、ヌーナン症候群には、心臓機能にも障害を及ぼすものです。私の心臓機能障害は肥大性心筋症です。でも、10年前のあの時点では、肥大性心筋症は真の牙を剥いてはいませんでした。でも、確実に最大値へ近づいていたのかもしれません。
受賞から2年後の2007年の夏7月17日。私は37歳。その年は、5月に姪が新生児仮死で生まれ、母に脳動脈瘤が見つかり、私も家族の一人として東奔西走の日々が続いていました。その日も朝から家事や、里帰り中の姉や甥姪の世話を焼き、一息ついた午後1時頃でした。
パソコンに向かっていた私は、何の前兆もなく突然「グェツ」と唸り、パソコンに倒れ込んだのです。傍らでまどろんでいた姉が、その声の異様さに「どうした?」と声を掛けても応答はなく、起き上がり近づいて見たものは、土色の顔をした私でした。腰を抜かさんばかりの驚愕を抑えて姉は私に蘇生法を施してくれ、通報した救急車は即駆けつけてくれ、幼い甥姪も神妙に大人しくしていてくれ……。様々な人が好転への歯車をピタリと合わせてくれたからこそ、私はこの命を拾うことが出来たのでした。
これが、肥大性心筋症の最大値である心房細動からの心肺停止の事態でした。翌日には意識回復し会話も成り立っていたと、母たちは言いますが、私には記憶が全くありません。過去(きのう)のことを日記と照らし合せてちゃんと把握・確認出来るようになったのは、事後半月以上経ってからでした。
ICDとともに生きる
その半月の中で、私の左胸にはICD(植え込み型除細動器:命に関わる不整脈が起こった時に自動的に電気ショックを行って不整脈を止め、発作による突然死を防ぐ装置)の埋め込み手術が決まり、私以外の人たちはホッと安堵の面持ちでいました。でも私は、ICDなど要らないと思っていました。
確かに、あの事態を目の当たりにした姉たちや救命に携わって下さった人たちにとっては、私が二度と同じ目に遭わぬようにしてやりたいの一心だったと思います。
でも私は37年間、この障害故に漠然と「死」を覚悟し、ある時は「死」を友とし救いとして来ました。言うならば私らしく「死」を迎えられるよう、私らしく生きようと思って来た日々だったのです。
そんな私にとって、あの7月17日の「死」は至極理想的な「死」だったと思えたのです。家族のために役立ち、自宅で、苦しみを自覚することなく、死を迎える。
でも、私は生きよと還され、「死」と切り離すようにICDとの共生の日々が始まったのでした。
ICDの除去 死を見つめながら生きる
命の見張り番ICDは、今思えばそんな私の心情を私以外で唯一知る者だったのかもしれません。だからこそ、誤作動や感染症といった「反抗」を見せたのかもしれないと、今だからこそ一機械であるICDに、申し訳なさを込めた憐欄を覚える私です。
そう、埋め込み手術から5年後、埋め込んだ切開部分が感染症に罹り、ICDの先端が皮膚を突き破って露出したのです。2012年の12月のことです。
即ICDの除去手術を受け、感染症治療の末、新年は自宅で迎えることが出来ました。
そうです。私は、ICDの再埋め込みを拒んだのです。「覚悟はしています」と言った私の意志を、受け入れてくれた家族や医師には、今も感謝しています。でも。
確かに、怖いです。いつ、この世との別れが来るか判らない。いや、七転八倒して機械に繋がれた身になるかもしれない。いやいや、もっと惨めな身になることも有り得る……。
そう考えると、再びICDとの共生を、とも思います。でも、あの6年間を顧みると「これでいいのだ」と思えるのです。
【私の見つめた歳月】と題して綴った作品を、今も時折読み返します。その度に私は、白分が果報者すぎる果報者だと思うのです。
それは、“思い出(記憶)”です。
いまだに、7月17日のあの心房細動の苦痛がどれほどのものだったか思い出せない私ですし、記憶障害を今も感じながらの日々ではあります。
でも、脳と体と心に刻まれ残った思い出が、今の私を「幸せだ」と支えてくれています。
良いことも悪いことも。喜怒哀楽様々に彩られた数え切れない思い出が「こんなに思い出があるほど私は生きて来れたんだ」と、日々の制約が多くなるばかりの今の私を、「それでも生きて行こう。その時まで精一杯」と、奮い立たせてくれるのです。
私は何を遺せるだろう
でも、「生きるだけでいいのか」と最近思うようになりました。それは、2011年の東日本大震災がきっかけでした。
まだICDとの共生の中にいた私は、あのどす黒い津波に呑まれていく人々の暮らしを画面を通して見るにつけ、新聞に載る亡くなられた人の欄を読むにつけ、思いました。
「私こそが、もっと生きるべき誰かの代わりに、この波に呑まれて死ぬべきだったのではないか」と。
今も鎮魂の念から、亡くなられた方の欄をスクラップし続けています。が、昨年12月に8か月ぶりのこの欄を見つけた時、私は泣きました。
ここにいるよと呼び続けた人と、どこにいるのかと呼び続けた人の歳月を思ったからです。
「わたしは何を残しただろう」
『花は咲く』歌中のこのフレーズは、私自身への問い掛けに聞こえました。
生きるだけではなく何かを遺せる生き方を、この一度は失くしかけた命で為したい。
とはいえ、考えとして浮かぶのはごく些細なことばかり。でも。
2007年の心房細動以降、記憶障害も自覚として著しい中で、私にできる行動は“書き記すこと”。
こころもとなくなった記憶を手繰り、見つけた、欠片のような幸せや感動や感謝の記憶を、言葉に置き換えて留める作業が、私に出来得る“遺せる手段”だ。
その言葉は、20年続けているエッセイ応募、私の人生に携わってくださった方々への折々の手紙などに綴り、私の手元から離れて(発信)いきます。私の言葉に何かを感じた方が、何かを発信してくださる…そんなつながりやサイクルが生まれたらいいなぁ…と思うのです。
いつ自分の経て来た歳月を見つめ返しても、百味の如き味わいある歳月をこれからも紡げる私でありたい。それが、この貴き賞をいただいた私の衿持でもあります。
このようにこの賞の貴さを思い続けられるのは、今は東京でご活躍のあるアナウンサーさんのおかげもあります。
授賞式後、当時は静岡放送局にいらしてインタビューに来て下さったアナウンサーさん。以後彼女は、一言添え書きされての年賀状を毎年下さるのです。そんな彼女の変わらぬ真摯さに、私はこの障害福祉賞の真髄を重ねるのです。
最後に、障害によって生まれる十人十色の渇望に光を与える貴賞の益々のご清栄とご存続を心よりお祈り致します。ありがとうございました。
福祉賞50年委員からのメッセージ
『私の見つめた歳月』は、羽田澄子監督が「見事な文章による心の動きの率直な表現に感動しました」と評しました。「「出会い」と「葛藤」が、私の人生の「正」と「負」であり、その間で私は、もがき報われ、戦い生き延びて来た」「乗り越えたと思っていた壁の向こうには、深い密林が広がっていた」。それから10年。突然の心肺停止。ICDとともに生きる日々との決別。みのりさんは「それでも生きていこう」と幸せや感動や感謝の記憶を言葉に置き換えます。もう一度『私の見つめた歳月』をじっくり読んで共感したい。
薗部 英夫(全国障害者問題研究会事務局長)