NHK厚生文化事業団 「私の生きてきた道 50のものがたり」 障害福祉賞50年 - 受賞者のその後

『私らしく生きています、今』

〜受賞のその後〜

伊藤 圭子 いとう けいこさん

1962年生まれ、施設通所、東京都在住
脳性まひ
31歳の時に第28回(1993年)優秀受賞

伊藤 圭子さんのその後のあゆみ

『私らしく生きています、今』

贈呈式での伊藤さんの写真
第28回 贈呈式

NHK心身障害者福祉賞(当時)をいただいて20余年、パソコンの普及や、福祉制度が変わる中、私はマイペースに、そうした時代かつ制度に乗り、楽しいことを見つけながら毎日を過ごしている。

〈私らしいデジタル生活へ〉

私は小さいころから、機械いじりが好きで、以前からパソコンに興味があった。しかしパソコンは、それまで使っていたワープロや仮名文字タイプライターと違い、マウスを私の体のどこで操作するか、私の中で悩んでいた。
 通院していた療育センターのPT(理学療法士)にそのことを話すと、パソコンの周辺支援機器を使ってボタンひとつで操作することを提案して下さった。
 中指と薬指でボタンを押しパソコンを操作する・・・慣れないと、思った場所にカーソルを持って行くことは、時間がかかって、ついついイライラしてしまう。

何回も、何日も練習し、PTからGOサインが出て、パソコンでネットを開き自分の好きなラジオ番組のサイトを見られた時は、「どこでもドアみたい!」と思い、感激してしまった。毎日のようにラジオの掲示板で、リスナー仲間と話したり、時にはパーソナリティーの人と交流をしたり、新しい世界が広がって行った。
 しかし、ネットの友達には、私が障害をもっていることを言ってない。番組のリスナーなので、障害は関係ない!と思い、リスナー仲間と話している時は、障害を忘れ自分自信も違う私に会っている、そんな気がして。でも、それもただの妄想だったのかも。同時に何人の人たちとも喋れるチャットをしていた時、私に「パソコン打つの遅すぎない?」と言って来た人がいて、私は「初心者だから(汗)」と言って自分をも誤魔化していた。障害者じゃない私をネットの中で演じるようになっていた。ついに、私がチャットに行くと、「打つのが遅くて会話にならない!」と言って、みんな消えて行ってしまうようになってしまった。
 私は「なぜ正直に言えなかったんだろう? 自分の障害を私が否定したら、今までの人生も否定することになっちゃうなぁ?・・・それは悲しいなぁ」と、一生懸命ネットとの付き合いを考えた。 そして「そうだ!自分のことを知ってもらうためにホームページを作ろう!」と思い立ち、わからないなりに個人サーバーをとって、東京電機大の学生のメル友に自分の障害のことを話して、「ホームページを作るから、サーバーに文章を載せたりする技術を教えて?」とお願いしてみた。
 快く引き受けてくれたメル友は、丁寧に何回もメールにホームページの立ち上げ方を、順番を追って教えてくれた。
 ホームページはパソコンの買い替えと同時に閉鎖してしまい、今はそのチャット友達たちと疎遠になっているが、この交流がなかったら、自分の障害が何も知らない人の目にどう映っているのか、ダイレクトに伝わって来なかっただろう。貴重な体験をさせてくれたと思い、出逢えたことに感謝している。

パソコンはネットのほかに、ワードやエクセルを自分流で覚え、週2日行っている支援センターの就労の時間に、支援センターの利用者に配布するスケジュールカレンダーや、広報誌の編集に使っている。私の仕事の良きパートナーとして、活躍している。

〈私らしく日々を開拓〉

養護学校の高等部を卒業してから20年行っていた、親たちが運営している作業所を経て、区内の生活介護施設に通所するようになった。
 新しい制度(支援費制度)の中でできた施設で、一つは重度の身体障害者と軽度の知的障害者が利用でき、入浴をしたり、運動や製菓講習、創作活動や音楽活動などに参加し、一日を楽しく過ごせる所。もう一つは、入浴はないが就労支援に力を入れている所。今までと違い、この二つの施設は、ひとつひとつの場面を通して改めて人生の勉強の場になっている。
 作業所では、母が家の延長のような介助をしていたが、通所施設では多数のスタッフの介助で、私のトイレや食事が成り立つ。私が介助の説明をしなければ、事が進まない。入所当時は「どうやって伝えれば、お互い楽にトイレができるだろう?」と戸惑うばかり。ボランティアの人の介助で慣れているはずなのに、スタッフの介助とどこが違うのか考え、私なりに答えが見えた。

伊藤さんと友人の記念撮影写真

ボランティアの人とは友人関係を作れる仲、キャンプなどの非日常の楽しさを共有するので、少し苦労があっても「あそこは車椅子で行くのがたいへんだったね?もうやめようね?」と、笑い話や、思い出話になる。しかし、通所のスタッフと私は、日常を共有する生活のパートナーだと、その違いに気付いた。なので、信頼関係を作って行こうと思った。私が快適だと思う介助をしてもらった時は、その気持ちを伝え、私の思いと違う介助をされた時は、とことんスタッフと話し合いをした。何回もお互い納得するまで、時には涙を流しながら。

〈私らしい仲間作り〉

信頼関係を作る技を獲得したおかげで、通所施設だけではなく、居宅ヘルパーとの関係作りも、楽しく成り立っている。
 また、通所施設には、様々な障害をもった人が利用者で来ている。それまで日常で触れ合いのなかった知的障害の人達や、高次脳機能障害の人達・・・初めはどうやって話しかけていいかわからなかった。
 通所で知り合った、活動も帰る方向も一緒の彼女は、いつも自分なりの言葉で喋っている。スタッフが会話を促すとやっと返事をするが、メンバーの私達とは会話が難しい。何年も私の中では謎の人だったが、ある日の彼女とPTさんのやりとりを見て、突然親近感が湧いた。
「Тさん!今行きたい所どこ?」彼女は寝転んでいた体を起こして、「あーん?ディズニーランド!・・・にーちゃん(PTさん)も行こう!はーちゃん(私のことらしい)も行こう!」と言った。呼び名は違うけど、確かに私のことを友人として認識してくれている・・・恥ずかしかったが、その時から彼女に対する私の意識が、謎の人から友人と変化した。

仲間たちとの写真

通所でいちばん話が合う彼は、中途障害で第一印象はリハビリ頑張っている人だった。通所の年月が経つにつれ、いろいろ話すようになり、仲よくなった。
「オレ(の障害は)事故(が原因)・・・もう戻らない!(ケイコの)障害は戻るの?」「アタシは戻るも戻らないも、生まれてからこのままだよ!・・・」と、こんな会話をしたり、好きな音楽アーティストの話で盛り上がったり、些細なことに怒ったり、怒られたりする存在。
彼の言葉が出ない時、彼が忘れっぽかったり、周りの空気を読み切れない時、私がフォローに回って、私ができないことを彼がフォローし、対等な関係を保っている。

普段、自宅で詩や日々の出来事を書く趣味の合間、通所をするということは、私の知識と経験を増やし、多数の人間関係の中では心が柔軟になり、私の生活の癒やしになっている。

〈私らしい未来の夢〉

私は生きている最後の日まで、未来があると信じている。これから私は年齢を重ね、体がもっと動かなくなると思うが、まだまだ私の興味は止まらない。
 重度の障害があっても、さりげなく仕事がしたい。自分のできることで収入を得られる自分になりたい・・・すぐ「そうだ!できないんだからもらおう!」と思ってしまうが、ほしい物は自分で獲得する・・・実際に実現できるかは予測不能、しかし、いつまでもそんな気持ちを忘れたくない。
 もちろん、人とのつながりも、これからも私の宝物にして楽しく生きて行きたい。

毎日支援してくれる人、物に感謝しながら。

福祉賞50年委員からのメッセージ

伊藤さん、その後ずいぶん変わりましたね。パソコンでも自分の障害をはっきり示す。新しい生活介護施設では、運動、製菓講習、創作活動で楽しみ、就労活動も行う。作業所では、ボランティアの人とは友人関係、スタッフとは生活パートナーということを認識して、信頼関係構築に意を注ぐ。知的障害の人達や高次脳機能障害の人達などとも、交流できるようになる。引きこもらないで積極的に生きる姿勢の成果がどんどん表れているのだと思います。「私は生きている最後の日まで、未来があると信じている」とは、すばらしい言葉です。

柳田 邦男(ノンフィクション作家)

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